台湾原住民を学ぶ台湾旅行記 0日目 準備編

台湾旅行記 準備編

 

台湾が台湾であるうちに台湾に行きたいわん。

 

10年前、短期語学留学で高雄に行って以来、台湾にちょっとした関心がある。

 

ところが、この10年で、国際情勢が日に日に悪くなってきているのを感じる。ロシアに限らず。台湾危機という言葉が明らかに10年前より聞く機会が多くなってきた。

 

台湾原住民にちょっとだけ詳しいおじさんとしては、本格的に台湾情勢が悪くなる前に行きたい場所がある。初めて台湾に行ったあと、3回台湾に行っている。2度目の短期語学留学と、友達と台北へ3泊4日の個人旅行、それに完全に1人で行った台湾半周旅行。最後の台湾半周旅行では、3泊4日にも関わらず、日月潭と太魯閣渓谷にソロで行くという無茶をした。スマホも持っていない時期に中国語もろくにできない中、無茶をしたので、台湾原住民に執着しているくせに、日月潭の山上に何があるか知らなかった。

 

と、いうことで、文化人類学ちょっと知っているマンの身内を連れて台湾に3泊4日の旅行に行ってきました!!仕事の繁忙期に有休とったから前後にめっちゃ残業してやったわ。主たる目的地は九族文化村。日月潭のすぐ近く、ロープウェイで山上まで上がったところにある、台湾原住民をテーマとしたエンターテインメント施設らしい。

 

日月潭あたりで1泊するか、ちょっと迷ったんだけど、飛行機と台北のホテルをセットでとった方が圧倒的に安い。なんなんだセット価格だと安すぎる。台北市内で3泊分の宿泊とエバーグリーンの往復航空券で7万円ぐらい。10年前とはレートがあまりにも違うからね、物価安いとか思って油断すると痛い目に遭う。

前回日月潭に行ったときは、朝焼けが見たくて日月潭ではまだ安いホテル(ホテルか?)に泊まったんだけど、バカ高いうえに、果物屋でチェックイン(チェックインか??)して、定食屋みたいなところの裏口(まじで裏口、信じられないぐらい裏口)から入った部屋だった。部屋に鍵を閉じ込めて、朝焼けを見てから果物屋が開店するまでの2時間日月潭周辺を歩き続けたことと、めちゃくちゃ風呂が臭かったことしか覚えてない。嘘、窓なしシングルを予約したのにダブルベッドが2つある部屋に通されて早口の中国語で説明されて何もわからないまま不安な夜を過ごしたことも覚えている。

 何が言いたいかというと、日月潭って有名な高級観光地みたいなところで、めちゃくちゃ宿が高い。無理無理。高い金払って臭い風呂でシャワー浴びるより朝早起きして台北から日帰りしてやんよ。

 

 台北から始発の高鐵、台湾での新幹線に乗り、高鐵台中駅からバスに乗ればほぼ開園時間に間に合う、はず。帰りも九族文化村発のバスに乗りさえすれば台中駅まで行けるし、台中から台北は真夜中まで高鐵が動いている。

 行ける!!!台北から九族文化村への日帰り旅行、すべてを割り切っていけば行ける!!!!!「台湾行ってみたい♡」って言ってくれる友達とかはちょっと連れていける行程ではないけども!!!!!

 

 結果、我々は3泊4日の台北でのホテル、往復のエバーグリーンの航空券、外国人限定の割引高鐵指定席券(時間の確定している往路のみ)の予約をして台湾へ旅立った!!我々の旅に乞うご期待!

マリマリおじさんに想いを寄せて

俺はちょっと台湾原住民に詳しいんだ。ちょっとだけ。

学生の時、語学留学ついでで大学の先生に連れられて台湾原住民のパイワン族の村に行ったことがある。ご飯食べさせてもらって、色々お話を聞いて、家とかとんぼ玉見せてもらって、なかなか得がたい機会だった。商売上手な奥さまからとんぼ玉も買った。

そのときに一言だけパイワン語を覚えた。

マリマリ

意味は「ありがとう」。それしか知らない。正しい発音はmarimariなのか、malimaliなのかも知らない。表記は多分ローマ字なんだろうけど、どう表記しているのか、そもそも文字で書くことがあるのかも知らない。なぁ〜んにも知らないけど、マリマリって言葉だけ覚えていた。

ところで、この度久々に個人で台湾旅行に行った。超楽しかった。俺は原住民にちょっとだけ詳しいんだ!と言いたいので、順益台湾原住民博物館とか行ってみた。故宮博物院ミュージアムショップだけ覗いた。そして今回の旅のメインは九族文化村。台湾原住民をテーマにしたアミューズメント施設。超広い。遊園地コーナー(横目に見ながら通り過ぎただけ)、ヨーロピアンガーデン(通ってもいない)もあって人気らしい。

原住民に並々ならぬ執着心を持つタイプの変人なので、台北から日帰りできてひたすら原住民コーナーで写真撮りまくって万物に感謝の祈りを捧げてた。最高。台湾原住民の日本語文献は本当に少なくて、日本統治時代の史料が基礎文献なんだ。目の前に資料があるとか涎でちゃうぜ。ここは首長の家!ここも首長の家!蛇!!壺!!像!!!ここは山を挟んだ東海岸側の首長の家ー!!

一通り騒いで写真を撮ったあと、お土産コーナーへ。とんぼ玉がたくさん売っていた。それなりに日本人も来るとみえ、一部日本語での解説も。ほぼ中国語のできないツレとキャッキャと騒いじまったぜ。

結局誕生月のとんぼ玉を買うことにしてお会計へ。レジは人のよいおじさん。「袋要りますか?」が聞き取れない私に「日本人?」「この時間なら日本語では『こんにちは』か?」なんてことを話しながら袋に入れてくれた。おぼつかない中国語で返事しながら思ったよ、今しかないって。会計を終えて商品を受け取った時、優しくしてくれたおじさんにちゃんとお礼が言いたかった。「謝謝你、マリマリ」。

パイワン族の展示の近くの売店だからっておじさんがパイワン族とは限らない。なんなら原住民ではない可能性もある。パイワン族でも若い世代は原住民語を話せない人もいる。通じなければ通じないでいいと思った。でも、ちゃんと通じた。

おじさん、最初は何を言われたかわからないみたいで固まってたけど、ハッと気づいた後、すっごい笑顔で「マリマリ!ありがとう!」と返してくれた。それはもうすごく嬉しそうに。

中国語もおぼつかない外国人に、(恐らくは)自分の民族の言葉でお礼を言われたマリマリおじさんは何を感じたのだろう。

俺はちょっと台湾原住民に詳しいんだ、日本人の中では。台湾に住むのは本省人系、外省人系、客家系と色々いるけど、原住民族は特に少数の民族で、16民族合わせても確か2%、5,6万人ぐらい。それぞれ言語は異なり、原住民でも違う民族だと通じず、日本統治時代に初めて日本語という共通語ができた。そして恐らく、今もそれぞれの原住民語は台湾の中でもマイナー言語だ。

日本人は多くはないだろうけど、売店のおじさんが挨拶を覚えるくらいには来ている。でもあの驚きようは、きっと今まで日本人にマリマリと言われたことはないんだろう。もしかしたら華語を話す台湾人からもあまりないのかもしれない。

これ以上考えても、日本という国で圧倒的多数を占める日本語を母国語とする日本人として生まれ育った私には本質的にはマリマリおじさんの気持ちはわからないだろう。

ただ、台湾原住民に執着する変わり者の日本人としては、原住民に限らず台湾の人々が日本にもって抱いている、ちょっと信じられないくらいの好感をちゃんと受け止めたいと思っている。

台湾のテレビには日本の番組だけを延々と流すチャンネルが複数ある。街中にあるセブンイレブンファミリーマートに行けば必ず日本のお菓子やお茶が所狭しと並んでいる。道に迷えば必ず誰かが声をかけてくれ、店で発音の怪しい中国語で何かを買えばゆっくり英語や日本語で話しかけてくれる。漫画やアニメだけでなく、日本のアーティストの音楽にも台湾の人は驚くほど詳しい。

日本統治時代の影響は大きい。台湾に神社があるのも、高齢者が日本語を話せるのも、日本統治時代があるからこそ。でもそれはいいことなのかと言われると難しい。そしてよくないこともたくさんあった。

それでも日本のことを愛してくれる台湾に、私たちは何か返せているだろうか。台湾が好き、旅行に行った、行きたいという人でも、安く行けて小籠包が食べられて白菜が見られるところぐらいの受け止めじゃないだろうか。日本統治時代の台湾、戒厳令下の台湾、民主化以降の台湾、それぞれ知ってるだろうか。台湾のエスニックグループを理解しているだろうか。

台湾が好き、美味しいものが食べられて、親日で、人々が温かく迎えてくれる。でももう一歩踏み出して、もっと台湾を知りたい。どうせこれからの時代、日本と台湾は協力していかなくてはならない。かつては自国だと言い張った土地。今はお隣さん。どんな人々が住んでいて、どんな生活をして、どんな考えをもっているのか、ちゃんと知りたい。俺はちょっと台湾原住民に詳しいんだと胸を張って言えるぐらいに。

映画「I Love My Dad」は家族再生の物語ではない

飛行機の中で見た映画が衝撃的だったのに他人のレビューが読めない。消化しきれない感想をなぐり書きにする。

どうもアメリカで上映されたものの、日本では公開されていないらしい。日本語で読めるものは在米邦人の方の短い感想が1つヒットしただけだった。

アメリカの映画レビューサイトで感想を読む。英語がかなり苦手なので、自動翻訳も参考にしながら読むしかない。もしかしてアメリカって日本みたいな詳細な考察サイトとかない?検索の仕方が悪い?細かいニュアンスまでは掴めていないだろうなと思いつつ読み進めていくと、概ね好評っぽい。キャストや音楽を褒めているのが多かった。

原題「I Love My Dad」。英語音声、中国語字幕で観たけど、どっちもあんまりわからないうえに途中から音声ほぼ聞けていないし、飛行機の中だからアナウンスが入るたびに止まって断続的。それでも大まかな筋は楽しめた。

別居中の父親チャックは、息子フランクリンから連絡先をブロックされる。よくわからなかったけど、たぶん父親が悪い。

で、唯一の連絡手段を断たれた父親、catfish=なりすましで息子と接触を試みる。

ウェイトレスのSNSアカウントを探し出して、写真を保存して、その写真を使って新しいSNSアカウントを作って、息子のアカウントに友達申請する。まぁまぁ気持ち悪い。

チャットで仲良くなっていくんだけど、思春期の息子フランクリン、美人のお姉さんとネット上で仲良くなったのよっぽど嬉しかったんだろうな、どんどんこじらせていく。一度も会ったことないけど、もう頭の中は彼女のことでいっぱい。歩いていても、三者面談していても、彼女のことばかり考えてる。その心象風景をうまく映像に落とし込んでるから見ている側としてはなかなか奇妙な光景で、このあたりがコメディとして笑えるところなんだと思う。フランクリンの脳内では彼女といちゃつきながら歩いてるんだけど、通行人こら見たら一人でニヤニヤフラフラ浮かれまくってるやばい奴。

で、フランクリン、彼女とお付き合いを始めるの、ネット上で。ネット上で付き合うって聞かないわけではないけども、フランクリンが付き合ってるのは実在のウェイトレス、ベッカじゃなくて父親のなりすまし。二人のチャット、中国語字幕では「吻」って出てきたから、日本語だと「ちゅ〜〜♡」みたいなノリ?フランクリンの脳内ではベッカとキスしてるの。でも、実際には父親にメッセージ送ってるわけよ。フランクリンの妄想したベッカとのキスシーン、実際のチャット相手である父親とのキスシーン、交互に流れるのまじでシュール。

まぁ「ちゅー♡」って送るぐらいなら若気の至りかもね。そのうちチャット上でセックス始めるの。たぶんお互いやらしいこと聞いて、各々己で局部触って興奮してるつもりなんだろうけど、いかんせん相手は父親。同性。困ったのは父親チャックで、自分はおっちゃんだからどう返すべきかわからない。それで自分に気がある女にフランクリンのメッセージをコピペして送って、女から返ってきたメッセージをコピペしてフランクリンに送って…。なんなんだこれ。フランクリンは誰とネット上でセックスしてるんだ。

家族と性的な話とか全くしたくない派なんだけど、性的な話がんがんするタイプでも絶対この状況は発狂するでしょ。歪むわ。しかも別れ話されたらプールに沈んで自殺未遂起こすぐらいの入れ込みよう。

ラスト、フランクリンはチャックがなりすました美女、ベッカに会いに行く。でもベッカはなりすまされただけだから、フランクリンのことは全くわからない。接客中にヘラヘラ笑いながら「俺の女」ムーブを知らん男に噛まされるベッカ、ただただ被害者でかわいそう。フランクリンがベッカにきもいこと言ったり、焦ったチャックがベッカの同僚になんとか誤魔化してくれ!って言ったり、はちゃめちゃなシーンは笑いどころなのかもしれないけどシュール過ぎて笑えなかったわ。

ネタバレされたフランクリンの心情たるや。わからないのがラストシーンなんだ。あれ、どう解釈したらいいのかわからない。英語ができる人間、I Love My Dadを見て日本語で感想書いてくれ。原題ほんまキッツいな、なにがI Love My Dadだ家族愛の話かと思ったじゃねぇか、家族愛だけどそうじゃねぇ!ラストシーンをどう受け止めたらいいんだ。フランクリンのあの顔はなんなんた!!!

ゼイ・シャル・ノット・グロウ・オールド

最近の情勢をうけて、Twitterでおすすめされていたので、Amazon Primeで駆け込み試聴。

我々が省みるのは第二次世界大戦ばかりだが、そうか、第一次世界大戦から百年経つのか。

第一次世界大戦の戦いは技術革新だったという。馬に乗って騎士が剣で戦う時代から、重火器を使い、戦車や飛行機に乗って戦う時代へ。ミリタリーの詳しいこと全然わからないけど。周りの一般市民はもちろん、志願兵となった少年たちも技術革新によって戦争がどう変わるかなんて考えもしなかっただろうに。

当然といえば当然なのかもしれないけど、戦勝国だろうと敗戦国だろうと、戦争が悲惨なこと、死や負傷は恐ろしいこと、飢餓や恐怖は苦しいこと、そんなことは共通しているのだな、と当たり前のことを考えてしまった。無意識にアジア太平洋での戦争と、ヨーロッパでの戦争、違うものって考えていたのかもしれない。

意外だったのは復員兵に対する市民の反応。イギリスって戦勝国だし、ナショナリズムが最高潮のなか熱狂的に迎え入れられたのかと思っていた。めちゃくちゃ冷たくされていてびっくり。「あの経験をした者しかわからない苦しみ」「もはや市民生活には戻れない」って言葉は違う国、違う立場の戦争経験者も残していたけども。第一次世界大戦敗戦国のドイツ復員兵の方が地元で敬意払われていたのでは?参照文献が少なすぎるだけ?

白黒映像入れたり、退役軍人の声使ったりしているか、すごくリアル。感情的に訴えることなく、語り手が淡々としている分、事実として捉えられる。きつい。隣の人が死んだとか頭吹き飛んだとかいうナレーションのときに、笑顔で写真に写る若い兵士の顔アップしないで。下手に特殊メイクで作ったグロい死体見せられるより、身近に感じてしまう。

いつの時代も、現場最前線の兵士たちは戦争なんてまっぴらって考えているんだな。目の前に死が広がっているのだから当然だけど、苦しいのも悲しいのもいやだよな。人を殺すことが戦争だけ正当化されるのも異常だよな。目の前の敵も人間だもんな。同い年くらいとか、親の顔に似ているとか一瞬でも考えたらもう無理だ。

なんとかならないのかな、なってほしいな。どうしたらいいのかな。

パラサイト 半地下の住人 視聴感想文

気になっていたのをAmazon Primeでようやく観た。ネットのレビューだと評価はいろいろだったけど、私は面白かったしすごい作品だなって思った。社会問題を描きつつ、面白くまとめて、余計な説明セリフを入れずにさりげないワンシーンで設定を描き、そして伏線の張り方とその回収が見事。

前半は半地下の住人であるキム家族が、高台に住む裕福なパク家族に寄生していく様子が描かれる。正直前半が一番面白い。半地下の住人であるキム家族は長男ギウが家庭教師として紹介されたことをきっかけに、失業中の家族全員がパク家に就職する手段が秀逸。長男ギウは大学生と身分を偽るために、妹ギジョンが学生の証明書を偽造する。ギジョンをアメリカ帰りの美大生と偽ってギウが紹介する。ギジョンはパク家専属運転手をカーセックスの嫌疑がかかるよう罠を仕掛けて解雇されるよう仕向けた上、親戚の運転手という触れ込みで父を紹介する。パク家より以前から住み込みで働く家政婦を、アレルギーを利用して結核に見せかけクビに追い込み、母を家政婦として就職させる。一連の手際がまぁ見事。学生証やら名刺やら偽造したり、仲介業者を装ったり、妹ギジョンが特にすごい。で、長男ギウは参謀役。計画にない突発的な出来事には弱いけど、計画を立て、実行させる能力がものすごく高い。逆に両親は突発的な出来事に臨機応変に対応するし、演技力もなかなか。子どもたちを大事に思っているのもわかる。だからこそ最後ああなっちゃったんだけど。それにしても、経歴は詐称しているし、両親は前の従業員を追い出して職についているけど、能力に関しては家族全員がパク家に認められるレベルだったんだよね。それでもギウの家庭教師が決まるまでみんな内職以外は無職だったとは。

K-POPも韓国流の美容も嗜まないから、韓国社会について疎く、初めて知る実情も多かった。
タイトルにもなっている「半地下」。実際映画を見るまでよくわからなかったんだけど、これは確かに半地下。窓の外がもう屋外の道路。立ちションしようとする酔っぱらいに住宅の衛生環境が脅かされる。パク家からすればものすごく違和感のある、独特の臭い。洪水対策なのか床よりはるかに高いところにあるトイレ。当然家全体も狭い。住宅価格が高騰している韓国都市部では、かつての防空壕が住宅に転用されているらしい。半地下に住んでいる人は多いというけど、作中でも大雨で下町は水没しているし、かなり劣悪な環境なんだろう。対して、パク家の住む高台は豪邸が立ち並び、防犯カメラも完備され、下町が水没してみんなが避難所で大騒ぎしている間に、息子のサプライズバースデーとしてガーデンパーティー。上と下との徹底した対比がすごかった。地上に住む恵まれた人々。半地下で能力があるのに貧困に苦しむ人々。物理的な上下が社会的な上下も如実に表しているし、半地下よりもさらに社会的に困窮もしくは罪を犯すと完全な地下に堕ちる、と。

パク家もキム家も四人家族。追い出された前運転手のことを話す父と兄に対して、キム家の妹ギジョンは「私たちのこと1番に考えてよ!」って酔って駄々こねるけど、パク家ダヘとダソンは一体どんな関係なんだろう。ダヘはダソンの「芸術家気取り」に対してかなり嫌悪感を示していたし、ギウにも訴えていた。パク社長も夫人もダソンの奔放さには困りつつも、おもちゃを買い与え、わがままを聞き、甘やかすというか、ものすごく構っているけどダヘにはそうでもない。もちろん、かなり年齢差もあるし、手のかかり方も違うけど。ギウとギジョンはかなり仲がいいようだったから、なおさらダヘとダソンの隔たりが気になってしまった。ダソン、モールス信号も理解できるし、追い出された家政婦となぜかずっと連絡とっているし、なんなら例のお化けも見ているし、宣伝ポスターでも絵が大々的に飾られているし、明らかにキーパーソンだよね。なのにダソン自身の考えとか全然見えてこなくてモヤモヤする。伏線がすごく張り巡らされている映画だから、考察すればなんか出てきそう!

ドイツ人はなぜヒトラーを選んだのか;民主主義が死ぬ日(読書中メモ)

ベンジャミン・カーター・ヘット著 ; 寺西のぶ子訳. (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ『ドイツ人はなぜヒトラーを選んだのか;民主主義が死ぬ日』読書メモ

第1章 八月と十一月

 1914年8月1日の第一次世界大戦参戦と、1918年11月3日のドイツ革命の勃発及びその後の敗戦。この2つの出来事は、ドイツでは開戦の8月、革命と敗戦の11月の伝説として語られる。

 開戦前、市民の中には反戦論者も多く、新聞では大きな戦争にならないという楽観か、反戦意見が載せられていた。それを戦争の勃発により、ドイツの国民はこれまでの分断を越えて、熱狂的に団結したとするのが、「1914年伝説」だ。

 4年後、ドイツは敗戦する。資源、人材、海軍力に勝る連合国に勝つことはできなかった。しかし、ドイツは軍事的な要因ではなく、革命によって「背後からのひと突き」を受け、敗戦したのだという匕首伝説」が生まれる。

 この2つの伝説は団結と分断、愛国心背信、右派と左派、8月と11月と対比して語られている。

 

第2章 「信じてはいけない、彼が本当のことを言っていると」

 ヒトラーは、「大きな嘘」で国民を信じさせる演技力に優れた政治家で、極端なナショナリストである。

 1889年、オーストリア=ハンガリー帝国の税関管理の父アイロスと、母クララの子としてオーストリアで生まれる。母の死後、ヒトラーはウィーンで美術学校入学を目指すが叶わず、7年間絵葉書描きとして放浪する。

 第一次世界大戦が勃発すると、ヒトラーオーストリア軍への入隊を拒み、混乱に乗じてバイエルン陸軍に入隊する。西部前線で伝令の任務を負いを務め、上等兵となる。前線で戦った経験は政治に目覚めるきっかけとなった。

 戦後当初のヒトラー社会主義の革命組織兵士評議会の評議員だったが、レーテ共和国が壊滅させられ、右派陣営がバイエルン州を治めると、ヒトラーは極右反ユダヤ主義へ転向し、反革命宣伝組織で働くようになった。

 ヒトラーは講演のうまさを買われ、ドイツ労働者党に入党し、演説をするようになる。党は国民社会主義ドイツ労働党(ナチ党)に改名。国民の貧困や苦しみは革命と講和条約のせいであり、社会主義者ユダヤ人を追い出すことが解決策とした。

 1923年、ヒトラーは右派集団と結集し、ビアホールプッチ(ミュンヘン一揆)を起こす。禁固5年と判決されたが、演説の才能により有名になり、1年で釈放された。

 首相や外相を歴任したシュトレーゼマンは、ハイパーインフレを終息させてドイツ経済を安定させ、賠償金支払いを減額するドーズ案、ヤング案をうけいれ、国境を安定させるロカルノ条約を結び、国際連盟に加入し、戦争を放棄し、ヨーロッパでのドイツの存在感を取り返すのに一役買った。

 フーゲンベルクは過激なナショナリストとして、買収したメディアを利用して反民主主義の政治活動を進めた。ヴァイマル共和国政府および戦後の合意に対する急進的な反対勢力だった。シュトレーゼマンが死去した頃、ヒトラーと協力関係になる。

 

第3章 血のメーデーと忍び寄る影

 ヴァイマル共和国では政治、宗教、社会階級、職業、居住地域が激しく分断されていた。社会主義陣営(社会民主党共産党)、カトリック陣営(中央党、バイエルン人民党)、プロテスタント陣営(保守派ドイツ国家人民党、リベラル派ドイツ民主党・ドイツ人民党、中小企業等などの小規模グループ)の3つの「宗派化」した陣営に分かれ、それぞれ民主派と反民主派を内包し、投票行動の変化は各陣営の内部で起こった。

 宗派的分断はベルリン市民とそれ以外の地方の住民の分断によってさらに拡大した。 ベルリンをはじめとする都市では、超近代的な生活を送り、厳しい階級格差により労働者の政党と中流階級の政党という明確な区別が生まれた。ユダヤ人や工場労働者が多かったため、社会民主党共産党への投票が多く、「赤いベルリン」と呼ばれて多くのドイツ人によってヴァイマル共和制への嫌悪のシンボルとなった。

 一方、地方は保守的で教会への帰属意識が強く、男性主体の家庭、政治、経済であるべきと考え、都市を警戒した。ヴァイマル共和国に不満をもち、ドイツの農業が経済危機に陥ると、「ラントフォルク運動」と呼ばれる過激な抵抗運動が起こった。

 反ユダヤ主義ナショナリストの右派の象徴となり、権力の崇拝、男らしさ、社会的エリート意識、人種差別、女性蔑視、軍国主義と結びつけられた。一方、反-反ユダヤ主義は民主主義、社会主義の政治信条、平和主義、フェミニズムと結びついていた。

 ヴァイマル民主主義は安定したが、ナショナリスト共産党、巨大企業・軍隊により反政府・反民主主義運動が激化する。また、民主主義に必要な歩み寄りは、政党が党派を超えられないという構造的課題、歩み寄りを蔑む強い文化的偏見により阻害された。

 軍人ヒンデンブルクは、第一次世界大戦タンネンベルクの戦いでの勝利により、プロセイン王国とドイツの救世主とされ、象徴となった。大統領に当選したヒンデンブルク憲法を遵守し、外相シュトレーゼマンの政策を進んで受け入れた。1928年の選挙後、ヒンデンブルク大統領の依頼を受け、社会民主党ミュラーは、左派社会民主党、穏健右派シュトレーゼマン、財界よりのドイツ人民党の大連合内閣を組閣した。しかし、国民には主要政党に対する政治不信があり、ドイツ実業界は社会民主党など左派を排除して、政治体制を民主主義から権威主義に変えようとしていた。

 シュライヒャーは大臣官房として政界における軍の代理人を務めた。州政府に対する中央府、立法府に対する行政府と軍隊の権限を強め、経済を安定させて軍事費を増やし、国家を強くし、ドイツの主権を取り戻すため、社会民主党から権力を取り上げようとし始める。ヴァイマル憲法では大統領の強い権限が認められていた。シュライヒャーはこれを利用して中央党の右派ブリューニングに政権を執らせ、国民の支持のある「政党に束縛されない内閣」を目指した。

 ウォール街大暴落以前にドイツ経済は悪化していた。食料品価格の下落によるラントフォルク運動の過激化、「合理化」による失業者の増加と失業保険の給付による財政圧迫、ウォール街の強気相場により景気が後退し始めていた。

 ブリューニングカトリック教徒のナショナリストで非常に理論的な人間だった。理論的に議論を行い、政策を辛抱強く説明しようとしたが、過激な右派から理解は得られなかった。ヤング案承認後、失業保険給付で揉めたことでミュラー連立内閣は崩壊し、シュライヒャーの計画通りブリューニングが首相に就任する。ブリューニングの予算案は国会で否決されたが、ヒンデンブルクの大統領緊急令を利用して成立させた。

 ロカルノ条約によってフランスがラインラント県から撤退すると、ドイツはむしろナショナリズムが急激に高まった。フランス外相ブリアンによる「欧州統合」が提案されたが、シュトレーゼマン逝去後のブリューニング内閣は、フランスがドイツより優位に立っている現状に満足せず受け入れなかった。

 

第4章 飢餓宰相と世界恐慌

1920年に公表されたナチ党の「二十五ヵ条」綱領では、「民族自決権」に基づき、「すべてのドイツ人の大ドイツ国への統合」が要求された。「二十五ヵ条」要綱では反資本主義、反エリート主義、社会福祉の拡充などさまざまな主張が挙げられたが、注目すべきは反ユダヤ主義とメディアや扇動への執着だ。

第一次世界大戦後、旧ロシア帝国から多くのユダヤ人難民が流入し、戦争と革命で深刻になっていた反ユダヤ主義がさらに激化する。ナチ党は宗教や居住の実態に関わらず、ユダヤ人は外国人関係法規を適用されるべきとした。また、新聞はドイツ語で書かれたドイツ人によるもののみの発行を認め、非ドイツ人が影響をもったり、「公共の福祉」に反するものは認めなかった。

権威主義国家を打倒し、宗教色がなく民主的なヴァイマル共和国はドイツのプロテスタントに嫌われた。また、ヴァイマル憲法を起草した中心人物がユダヤ人であったことからも反ユダヤ主義は高まる。階級や宗教が合致する政党がなかった中産階級プロテスタントはナチ党を支持するようになっていく。

1920年代末期、英米の作った経済・金融システムの中でドイツは不利な立場だった。また、賠償金の支払いもドイツに大きな負担となり、債務負担により諸外国に依存する事態となった。ナチ党は自給自足の経済を作り上げることでそこから脱却しようとした。

ナチ党でヒトラーの右腕とされたシュトラッサ―は、党の支持者以外からも人望を集めていた。彼は11月革命を反乱とみなし、反資本主義を掲げた。また、第一次世界大戦で失った領土に対し、ドイツ国民は怒りと国境警備上の脅威を感じていた。

第一次世界大戦後に多くドイツに流入した難民や、ほかの列強の影響を強く受けるドイツの政党を、ナチ党はドイツの弱さとし、自給自足の経済をつくるために難民、ユダヤ人、共産党員を排除し、より強固にドイツ国民が総力戦に臨める状態を目指した。

しかし、ナチ党は世界革命からの影響も受けていた。ヒトラートルコ共和国アタテュルク大統領を崇敬し、オスマン帝国が締結したセーヴル条約の破棄、アルメニア人虐殺を称賛した。ロシア人からもたらされた『シオン賢者の議定書』によってドイツ人は反ユダヤ主義に感化された。ナチ党はイタリアのムッソリーニとそのファシスト体制には強い影響を受け、彼らに倣った制服や敬称、敬礼を行い、ファシスト党とつながりをもった。ファシズムは敗戦と共産主義の高まりを経験した国に起きる。ドイツの国家社会主義は他国の影響によるものだったのだ。

ブリューニングはドイツの経済危機は賠償金支払いが原因と考え、アメリカに仲裁を頼んだが実現せず、経済危機により政治状況も緊迫した。そんな中、フランスは軍縮と賠償金の支払いを期待してドイツへの大型融資決定を発表する。しかしブリューニングはヴェルサイユ条約に違反するオーストリアとの関税同盟を結ぶ発表をし、フランスの融資を回避する。さらに彼はドイツ経済は賠償によるドイツの窮状を声明やイギリスとの会談によって訴えた。ドイツ国内の共産党やナチ党を政権から遠ざけるために米英は動き、すべての賠償金と戦債の支払いを猶予する「フーヴァー・モラトリアム」を発表した。ブリューニングは賠償金支払いを終わらせたが、これは世界的な大金融危機の引き金ともなった。1931年には経済危機から世界恐慌に陥り、ドイツは前代未聞の失業者を抱え、栄養不足による病気も広まった。

ベルリンでゲッベルズはナチ党の宣伝活動を行っていた。ヴァイマル共和制では、すべての政党が準軍事組織を持っていた。ナチ党は突撃隊(SAまたは褐色シャツ隊)と呼ばれる組織をもっていた。内戦に近い状態の中、突撃隊は暴力沙汰を起こし、共産主義者からの正当防衛だとメディアを使って訴えた。1931年から32年にかけて内戦状態が悪化し、共和制は揺らいでいた。

 

5章 国家非常事態と陰謀

シュライヒャーは、右派に国会議席過半数をとらせるのはドイツ国家人民党は無理でもナチ党ならできるかもしれないと考えた。一方、首相ブリューニングは徹底した保守派だったが、政治に関しては社会民主党が頼りになると考えていた。世界恐慌対処のためにブリューニングが出した大統領緊急令はナチ党を危険視する社会民主党によって支えられていた。しかし、その姿勢は社会民主党の支持者、シュライヒャーやヒンデンブルクをそれぞれ幻滅させた。

シュライヒャーはナチ党の支持基盤は脆弱で共産主義になびきかねないと誤解し、またナチ党の危険性を理解していなかった。ブリューニング首相は大企業など左派との協力関係を嫌う支持基盤や、シュライヒャー、ヒンデンブルクからの信頼を失っていた。大統領ヒンデンブルクは自分の名声を守るため大統領緊急令を使わず右派が自分に協力した政治運営を望んだ。ヒンデンブルクシュライヒャーはより右寄りの内閣再編を要請し、ブリューニングは実行した。しかし、ナチ党、ドイツ国家人民党も野党のままで、2人のブリューニングに対する苛立ちは募る一方だった。

鉄兜団と国家人民党からデュスターベルク、共産党からテールマン、右派退役軍人団体の支持と中道派・中道左派の後ろ盾を得たヒンデンブルク、そしてナチ党を代表してドイツ国民になったばかりのヒトラーが出馬し、大統領選が行われた。選挙には消極的だったヒンデンブルクが決選投票で53%の票を獲得し再選を果たした。

1931年の春、ブリューニングらの主張により、ベルリンの治安悪化の原因である突撃隊禁止令が出された。突撃隊を利用したいと思っていたシュライヒャーは突撃隊だけでなく国旗団も非難されるべきと主張、さらに突撃隊禁止令の撤回、ブリューニングらの失脚、プロセイン州の現政権の終焉を目指してナチ党と接触した。ヒンデンブルク内閣総辞職を求め、ブリューニングはそれに応じた。

貴族の次男、パーペンは陸軍の軍人としてアメリカで諜報活動を行っていたが、当局に活動が発覚し、帰国する際に多くの機密事項をイギリス情報機関に奪われてしまう。帰国後は帝国陸軍オスマン帝国駐留ドイツ軍で汚名を返上し、その後中央党から政治の世界に入る。人当たりがよいが頭が切れるとはいいがたい彼が、ブリューニングに代わってヒンデンブルクから首相に任命された。パーペン政権は前内閣よりはるかに右寄りで上流階級の閣僚が多く、「男爵内閣」とあだなされる。シュライヒャーとナチ党の取引に基づき突撃隊禁止令は撤回され、政治的暴力を扱う「特別法廷」が創設された。議会の多数派から支持を受けていたブリューニングと違い、シュライヒャーとパーペンの内閣は議会政治を完全に終わらせるために大統領緊急令を使った。プロイセン州政府に陰謀と反逆の冤罪を着せ、大統領緊急令でパーペンがプロイセン州の元首となった。

 7月31日、ナチ党は選挙で圧倒的勝利を収めた。支持層はプロテスタントの農村部。投票日の夜から突撃隊員による政敵らへの殺人や放火などの暴力が続いた。パーペンの緊急命令による特別法廷でナチ党5名の死刑判決が出ると、ナチ党の幹部はパーペン政権を激しく非難した。一連の出来事を見たドイツ国民やメディアだけでなく、政権や陸軍もナチ党の危険性に気づきはじめ、鎮圧する計画を立て始める。ナチ党は大統領緊急令とプロイセン州のクーデターを口実にヒンデンブルクの罷免提起の準備をしていた。シュライヒャーら政権側は政権の存続のため、ナチ党は権力の座につくため再び会談を行い、ヒトラーを首相にする合意をするが、ヒンデンブルクは「ボヘミア上等兵」を自分の首相にするのを嫌がり、会談は決裂する。

8月30日、パーペンらは非常事態の宣言と、議会の解散と選挙の延期を計画していた。しかし、9月12日、国会が再開されたとき、共産党が出した不信任案によってパーペン政権は退陣させられる。続く選挙でナチ党は第一党を獲得するも得票率は37%から33%にまで低下し、共産党を抑えナチ党を引き入れたいシュライヒャーは焦る。ヒンデンブルクはナチ党と共産党が手を組んで蜂起し、内戦が生じる可能性を避けるため、ナチ党を分裂させて多数派をまとめるのというシュライヒャーを首相にした。

 

6章 ボヘミア上等兵と貴族騎手

1932年12月、シュライヒャーは首相に就任する。彼はナチ党シュトラッサー一派含む、本来敵対する勢力を結びつける政治連合を組み、公共事業とインフラ整備に公的資金を投入し雇用を生み出す「横断戦線」という構想を軸としていた。

シュトラッサーはナチ党幹部ではあったが、ヒトラーの極端な方針やナチ党の暴力性を拒むようになった。そこでシュライヒャーはシュトラッサーを自分の内閣に引き込もうとする。しかし、ヒトラーの方針に反する彼はナチ党内で孤立し、党幹部を辞任する。

パーペンは首相を降ろされたあと、シュライヒャーを倒すためにヒトラーと交渉を続けていた。シュライヒャーはシュトラッサーが党内でまだ力をもち、自分を支持してくれると誤解したまま話し合いを続けていた。ヒンデンブルクシュライヒャーの農村部政策に不満をもつ貴族たちが自分の印象を悪くするのを気にしていた。

1月15日のリッペ州選挙にナチ党は全力を注ぎ、43%の得票率で勝利したことから、シュライヒャーがシュトラッサーを内閣に入れる望みは絶たれた。パーペンはヒトラーを首相に推薦するが、ヒンデンブルクヒトラー首相指名を固く拒む。シュライヒャーは緊急事態を宣言する大統領緊急令を出して国会を休会したが、暫定政権としての存続を選ばず、ヒンデンブルクも選挙の延期は認めなかった。国内の対立は増し、左派は緊急事態の違法性を訴え始めた。1月31日からの国会開会が決まると、ヒンデンブルクシュライヒャー内閣の辞職を受け入れ、ヒトラーを首相にし、国会は選挙を行うために今一度解散させる決意をした。議会が安定政権を成立させられなかったため、最も力のある政党の党首を首相に選んだのだとされるが、ヘルマン・ミュラー政権は安定し、ブリューニング政権は信任を得ていた。1932年から33年の政治危機と議会の膠着状態、そして解決策としてのヒトラー首相就任は、一連の保守派政治家たち(フーゲンベルク、ブリューニング、シュライヒャー、パーペン、ヒンデンブルク)が左派を排除し自分たちに都合のよい条件で権力を維持するために作り出された。1月30日、ヒトラー内閣が成立する。内閣成立当初は、閣僚内のナチ党員は3人のみで、残りは副首相パーペンをはじめ、従来の上流層の右派だった。ほとんどのドイツ人は内閣の保守派政治家やヒンデンブルクの権威、陸軍がヒトラーを正道から外れないようにすると信じていた。

第7章 強制同質化と授権法

ヒトラープロイセン州の内相にナチ党ゲーリングを任命し、彼はプロイセン州の警察を管轄するようになった。2月初めから左派の政治家や知識人、報道機関などナチ党に敵対する人々を標的として法令と警察の措置が導入された。政治集会の中止、結社の禁止、報道機関の閉鎖など幅広い権限を警察に与える法令にヒンデンブルクは署名した。2月27日国会議事堂が炎上すると、ヒトラー政府は共産主義者によるテロだと主張し、「議事堂炎上令」とも呼ばれる大統領令を発令する。これによって言論・集会・結社の自由、新書・電信・電話の秘密、住居不可侵、人身の自由が一気に剥奪された。さらに中央政府が州政府に介入する権限も認められた。国会議事堂炎上は、現場で逮捕されたオランダ人熟練煉瓦職人が単独で放ったと強硬に主張したが、彼が単独で放つのはほぼ不可能で、あまりにもナチ党に有利に働いたので、今もナチ党が放火したのではないかという議論がなされている。

商業広告を手本にしたナチ党のプロパガンダにより、合理的な啓蒙思想的な基準は軽視され、事実上の革命が起きたも同然だった。19世紀末のヨーロッパでの、普通選挙が行われるようになったこと、ユダヤ人に対する憎悪や偏見が中世以来再び現れ非合理性が社会で容認されるようになったことという2つの重要な出来事はこれと関係する。ナチスは人種主義という非合理性を魅力的に見せ、資本主義でリベラルな欧米諸国を合理性と結びつけて拒否した。ナチ党の支持者たちはナチズムが非合理であっても気にしなかった。ナチ党は報道に強く圧力をかけ言論を統制し、司法を見下してヒトラーの意向に反する裁判官は解雇されることもあり、「総統」という新しい法的概念が作られた。

最後の選挙と公言する1933年33月5日の国会総選挙が行われた。暴力的な選挙運動が行われ、ナチ党は43%の票を獲得した。宗教儀礼や軍事パレードで「民族的団結」を実演する「ポツダムの日」から2日後、突撃隊と親衛隊が配置されたなかで国会が開かれた。ナチ党の成功と威嚇を前に、社会民主党以外のすべての党がヒトラーの授権法に賛成票を投じた。ヒトラーは大統領に依存しない立法権を手に入れ、「強制的同質化」が行われた。「信用のおけないものと非アーリア人」は公職から追放され、政党は禁止されたり解散したりし、強制収容所が設置された。

 

第8章 「あの男を追いさねばならない」

副首相パーペンは高く評価されなかったが、彼の「副首相官房」は、パーペンの副官で非公式政治諜報部のチルシュキー、急進的なナショナリストであったユング、青年弁護士のケッテラー、パーペンの報道担当秘書で元情報将校のボーゼを中心に、パーペンの知らぬまま反ナチ運動のよりどころとして利用された。彼らは広い人脈を駆使して、ナチ党の被害者を支援したり、「強制的同質化」の進行に抵抗したりした。1933年の夏にはナチス体制そのものを弱体化させ、政権交代させるための抵抗運動を始める。

1934年のはじめ、彼らはヒンデンブルクの大統領権限によって戒厳令を出し、保守派有力者による暫定政府を設け、ヒトラー政権を弱らせてから新憲法起草の国会を開く計画を立てていた。当時はヒトラー政権の政策に対する不満が出ていた上に、突撃隊も政権に主流派に不満をもち、陸軍も突撃隊の統率についてヒトラーに圧力をかけていた。さらに、ヒンデンブルクの身体が弱り始め、保守派は彼の死を利用して君主制を復活させたがっていた。そこで、副首相官房のメンバーはパーペンに体制批判の演説をさせ、それを広め、体制批判を高めてヒンデンブルク戒厳令を出させることにした。植民地市場に頼らずヨーロッパ共通の経済圏を作る必要性を述べ、ドイツにおけるファシスト体制を批判し、ドイツ人は文化や知性に関して他国を受け入れる必要性を訴える演説原稿をユングが執筆した。6月17日、パーペンはマールブルク大学の大講堂で約600人の聴衆に向けて演説を行った。演説は成功し、多くの共感者を得たものの、印刷所の演説原稿の複写はナチ党に押収され、パーペンはヒンデンブルクを訪問する前にヒトラーに丸め込まれた。実際のところ、ヒンデンブルクは大衆の支持を得た右派統一政府樹立を目標としていたため、パーペンの演説よりヒトラーの発禁措置に同意し、陸軍も突撃隊に対処するつもりはなかった。ユングは演説原稿を書いた証拠を押さえられ、逮捕される。

6月30日に起きた「長いナイフの夜」では、保守派や軍から警戒されていた突撃隊、袂を分かったシュトラッサーと彼を引き入れようとしたシュライヒャーが標的となった。パーペンの部下たちは逮捕もしくは殺害された。パーペン自身はヒトラーに取り入り生かされてはいたが副首相時代は終わった。突撃隊は本当に嫌われていたので、「長いナイフの夜」を経て政権の国内人気はかなり回復し、ヒンデンブルク、陸軍は満足し、保守派の抵抗運動は打ち砕かれた。

8月2日、陸軍元帥で大統領のヒンデンブルクは腎不全で死去した。ヒトラーは大統領府そのものを廃止し、「総統及びドイツ国首相」という称号を獲得し、軍人、官吏は全員ヒトラー個人に忠誠を誓うよう義務付けた。ヒトラーの独裁体制は完成し、政敵となるだけの基盤をもつ組織はなく、同質化した。1934年8月には大帝国を築くための戦争の準備が整った。しかし、ユングらの抵抗運動に触発されて同じような集団のなかで抵抗運動が始まるようになった。

ヒトラーとナチ党が権力を握った仕組みは単純ではない。第一次世界大戦の敗戦による心の傷によって、8月の団結と11月の「背後からのひと突き」という2つの伝説が信じられた。ドイツ再生後は、大企業、軍、農家は世界のなかのドイツの地位に不満をもち、民主主義を築いてきたドイツ社会民主党に権力を持たせなかった。ヴァイマル共和国では、ドイツ国民はあらゆる領域で激しく分断され、人数において優勢なプロテスタントの間で反ユダヤ主義が高まり、民主主義への不満が募る。ヴァイマル共和国に反対する集団は、自己の利益のために敵との妥協をいやがりヒトラーとナチ党を利用するしかなくなったために追いやられていった。ヒンデンブルクは自分のイメージを守りつつ右派政府を樹立するために、かつて「ボヘミア上等兵」と拒絶したヒトラーに取り込まれた。つまり、強引な作り話と非合理に陥りがちな文化の中で、大きな抗議運動とエリートの私欲が衝突した結果、ヴァイマル共和国の民主主義は終焉した。ヒトラーが台頭する未来を予知できたものはほとんどおらず、その無知は私たちと無縁ではない。しかし、私たちには彼らの前例があるという有利な点がある。

アウシュヴィッツを志願した男;ポーランド大尉、ヴィトルト・ピレシキは三度死ぬ(読書感想文)

 「ポーランド大尉、ヴィトルト・ピレツキは三度死ぬ」

 副題があまりにもピレツキの人生を表している。

 ポーランド大尉のヴィトルト・ピレシキは、アウシュビッツに自ら入り、自ら出た唯一の人間である。アウシュビッツ内では、武装地下組織を作り上げ、囚人たちによる武装蜂起を可能にした。アウシュビッツ脱出後は、ナチスに代わってポーランドを支配したソ連に抵抗した。しかし、今度のピレツキはソ連の傀儡と化したポーランド新政権に捕らえられ、同胞のポーランド人によって処刑された。

 祖国のため潜入したアウシュビッツの中で生き延びるだけでも大変なことなのに、ナチスに見つかることなくこれだけのことを成し遂げたピレツキはどれだけ優秀なのか。ナチスによる支配が終わり、平穏かに見えても、あくまでポーランドの独立を勝ち取るために最後まで戦い続けたピレツキの意思はどれほど強いのか。 

 アウシュビッツでの彼の目覚ましい活躍は、彼自身のレポートが日本でも出版され、そちらが詳しい。既読の『アウシュヴィッツ潜入記』では、収容所の劣悪な環境と、その中での彼の功績を読み取ることができた。本書でも、『アウシュヴィッツ潜入記』の内容はおおいに参考にされ、十分にアウシュビッツでの出来事を知ることができるが、本書は潜入記では軽く触れられるにとどまった、脱出後のことにも詳しい。もちろん、アウシュビッツでの生活がいかに過酷なものだったかは本書からも痛いほど伝わってくる。潜入記の訳者とは違う訳で、またピレツキ自身、時間がなく完璧ではないといった文章をわかりやすく順序たてて書いている分、潜入記の邦訳よりも頭に入ってきやすい。しかし、潜入記既読の私にとっては、脱出後の彼の人生の方にこそ、やりきれなさを感じる。一つは外の世界、特に西側諸国の無関心さ、もう一つは祖国ポーランドの裏切りによって。

 収容所内にいたころから、アウシュヴィッツの内情をピレツキはあらゆる手段を使って、英国にあるポーランド亡命政府に送っていた。地下組織も整い、いつでも蜂起できる状況だった。それでもイギリスおよび亡命政府は空爆に踏み切らなかった。ナチスと戦うためにワルシャワ蜂起がなされたときも、ソ連ポーランドの兵士、市民を見殺しにした。ワルシャワ蜂起でボロボロになったポーランドを、ソ連が支配したときも、英米は黙認した。ポーランドはずっと、強国によって見捨てられ、すり減らされていた。

 状況がわからなかったとはいえ、アウシュヴィッツが快適な環境であるとは誰も思わなかったはずだ。そこへ潜入し、生き延び、組織を作る彼が祖国を愛さなかったはずがない。潜入記でも、本書でも、彼の祖国を愛する気持ち、ポーランド人としての誇りは痛いほど伝わってくる。にも関わらず、よりにもよってソ連の影響下にあるポーランドで、彼は同胞に拷問を受け、あげく見せしめとして国家転覆罪で死刑にされる。ピレシキは愛するポーランドに裏切られて死んだ。

 少しでも救われることがあるとすれば、ごく近年になってからだがポーランドがピレツキを英雄として扱うようになったことだ。ピレツキの死刑判決は無効とされ、英雄と認められ、名誉市民の称号が与えられ、切手が発行され、公園や記念碑が設置され、名前を学校や組織やロータリーに使われ、テレビで特集が組まれた。外国に情報を売ったなどというピレツキの人生からはありえない汚名は返上され、ピレツキの名誉は回復した。しかし、自ら志願してアウシュビッツに潜入するようなピレツキは、そのような個人の名誉よりもポーランドの発展を祈っているのではないだろうか。

 本書はピレツキの潜入記や多くの書籍も参考にしているが、ピレツキの遺児、アンジェイ、ゾフィアへのインタビューからの情報が多く盛り込まれている。社会主義の敵は祖国の敵とされ、苦しい生活を送ってきた彼らが、インタビュー当時は晴れやかな表情だったというのが心からよかったと思う。

 ポーランドは歴史的に見ても、ドイツやロシアなど、隣国に分割されることが多かった。大戦後も長くソ連支配下にあった。しかし、東欧の中ではいち早く民主化を成し遂げ、非社会主義政権が発足してすぐに、ポーランド司法はピレツキの名誉回復のために動いた。ピレツキが愛し、誇ったポーランドは確かに続いているのだろう。

 ピレツキのように、祖国を愛し、祖国のために自分の才覚を余すことなく活用することができるのは素晴らしいと思う。もちろん、愛国が行き過ぎ、他者を排斥し始めればナチスと変わらない。かつてのポーランドのように、他国に分割され、支配され、蹂躙される国が二度と生まれなければいい。すべての国の住民が、自分たちに、自分たちの国に誇りをもって生活できればいい。