ドイツ人はなぜヒトラーを選んだのか;民主主義が死ぬ日(読書中メモ)

ベンジャミン・カーター・ヘット著 ; 寺西のぶ子訳. (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ『ドイツ人はなぜヒトラーを選んだのか;民主主義が死ぬ日』読書メモ

第1章 八月と十一月

 1914年8月1日の第一次世界大戦参戦と、1918年11月3日のドイツ革命の勃発及びその後の敗戦。この2つの出来事は、ドイツでは開戦の8月、革命と敗戦の11月の伝説として語られる。

 開戦前、市民の中には反戦論者も多く、新聞では大きな戦争にならないという楽観か、反戦意見が載せられていた。それを戦争の勃発により、ドイツの国民はこれまでの分断を越えて、熱狂的に団結したとするのが、「1914年伝説」だ。

 4年後、ドイツは敗戦する。資源、人材、海軍力に勝る連合国に勝つことはできなかった。しかし、ドイツは軍事的な要因ではなく、革命によって「背後からのひと突き」を受け、敗戦したのだという匕首伝説」が生まれる。

 この2つの伝説は団結と分断、愛国心背信、右派と左派、8月と11月と対比して語られている。

 

第2章 「信じてはいけない、彼が本当のことを言っていると」

 ヒトラーは、「大きな嘘」で国民を信じさせる演技力に優れた政治家で、極端なナショナリストである。

 1889年、オーストリア=ハンガリー帝国の税関管理の父アイロスと、母クララの子としてオーストリアで生まれる。母の死後、ヒトラーはウィーンで美術学校入学を目指すが叶わず、7年間絵葉書描きとして放浪する。

 第一次世界大戦が勃発すると、ヒトラーオーストリア軍への入隊を拒み、混乱に乗じてバイエルン陸軍に入隊する。西部前線で伝令の任務を負いを務め、上等兵となる。前線で戦った経験は政治に目覚めるきっかけとなった。

 戦後当初のヒトラー社会主義の革命組織兵士評議会の評議員だったが、レーテ共和国が壊滅させられ、右派陣営がバイエルン州を治めると、ヒトラーは極右反ユダヤ主義へ転向し、反革命宣伝組織で働くようになった。

 ヒトラーは講演のうまさを買われ、ドイツ労働者党に入党し、演説をするようになる。党は国民社会主義ドイツ労働党(ナチ党)に改名。国民の貧困や苦しみは革命と講和条約のせいであり、社会主義者ユダヤ人を追い出すことが解決策とした。

 1923年、ヒトラーは右派集団と結集し、ビアホールプッチ(ミュンヘン一揆)を起こす。禁固5年と判決されたが、演説の才能により有名になり、1年で釈放された。

 首相や外相を歴任したシュトレーゼマンは、ハイパーインフレを終息させてドイツ経済を安定させ、賠償金支払いを減額するドーズ案、ヤング案をうけいれ、国境を安定させるロカルノ条約を結び、国際連盟に加入し、戦争を放棄し、ヨーロッパでのドイツの存在感を取り返すのに一役買った。

 フーゲンベルクは過激なナショナリストとして、買収したメディアを利用して反民主主義の政治活動を進めた。ヴァイマル共和国政府および戦後の合意に対する急進的な反対勢力だった。シュトレーゼマンが死去した頃、ヒトラーと協力関係になる。

 

第3章 血のメーデーと忍び寄る影

 ヴァイマル共和国では政治、宗教、社会階級、職業、居住地域が激しく分断されていた。社会主義陣営(社会民主党共産党)、カトリック陣営(中央党、バイエルン人民党)、プロテスタント陣営(保守派ドイツ国家人民党、リベラル派ドイツ民主党・ドイツ人民党、中小企業等などの小規模グループ)の3つの「宗派化」した陣営に分かれ、それぞれ民主派と反民主派を内包し、投票行動の変化は各陣営の内部で起こった。

 宗派的分断はベルリン市民とそれ以外の地方の住民の分断によってさらに拡大した。 ベルリンをはじめとする都市では、超近代的な生活を送り、厳しい階級格差により労働者の政党と中流階級の政党という明確な区別が生まれた。ユダヤ人や工場労働者が多かったため、社会民主党共産党への投票が多く、「赤いベルリン」と呼ばれて多くのドイツ人によってヴァイマル共和制への嫌悪のシンボルとなった。

 一方、地方は保守的で教会への帰属意識が強く、男性主体の家庭、政治、経済であるべきと考え、都市を警戒した。ヴァイマル共和国に不満をもち、ドイツの農業が経済危機に陥ると、「ラントフォルク運動」と呼ばれる過激な抵抗運動が起こった。

 反ユダヤ主義ナショナリストの右派の象徴となり、権力の崇拝、男らしさ、社会的エリート意識、人種差別、女性蔑視、軍国主義と結びつけられた。一方、反-反ユダヤ主義は民主主義、社会主義の政治信条、平和主義、フェミニズムと結びついていた。

 ヴァイマル民主主義は安定したが、ナショナリスト共産党、巨大企業・軍隊により反政府・反民主主義運動が激化する。また、民主主義に必要な歩み寄りは、政党が党派を超えられないという構造的課題、歩み寄りを蔑む強い文化的偏見により阻害された。

 軍人ヒンデンブルクは、第一次世界大戦タンネンベルクの戦いでの勝利により、プロセイン王国とドイツの救世主とされ、象徴となった。大統領に当選したヒンデンブルク憲法を遵守し、外相シュトレーゼマンの政策を進んで受け入れた。1928年の選挙後、ヒンデンブルク大統領の依頼を受け、社会民主党ミュラーは、左派社会民主党、穏健右派シュトレーゼマン、財界よりのドイツ人民党の大連合内閣を組閣した。しかし、国民には主要政党に対する政治不信があり、ドイツ実業界は社会民主党など左派を排除して、政治体制を民主主義から権威主義に変えようとしていた。

 シュライヒャーは大臣官房として政界における軍の代理人を務めた。州政府に対する中央府、立法府に対する行政府と軍隊の権限を強め、経済を安定させて軍事費を増やし、国家を強くし、ドイツの主権を取り戻すため、社会民主党から権力を取り上げようとし始める。ヴァイマル憲法では大統領の強い権限が認められていた。シュライヒャーはこれを利用して中央党の右派ブリューニングに政権を執らせ、国民の支持のある「政党に束縛されない内閣」を目指した。

 ウォール街大暴落以前にドイツ経済は悪化していた。食料品価格の下落によるラントフォルク運動の過激化、「合理化」による失業者の増加と失業保険の給付による財政圧迫、ウォール街の強気相場により景気が後退し始めていた。

 ブリューニングカトリック教徒のナショナリストで非常に理論的な人間だった。理論的に議論を行い、政策を辛抱強く説明しようとしたが、過激な右派から理解は得られなかった。ヤング案承認後、失業保険給付で揉めたことでミュラー連立内閣は崩壊し、シュライヒャーの計画通りブリューニングが首相に就任する。ブリューニングの予算案は国会で否決されたが、ヒンデンブルクの大統領緊急令を利用して成立させた。

 ロカルノ条約によってフランスがラインラント県から撤退すると、ドイツはむしろナショナリズムが急激に高まった。フランス外相ブリアンによる「欧州統合」が提案されたが、シュトレーゼマン逝去後のブリューニング内閣は、フランスがドイツより優位に立っている現状に満足せず受け入れなかった。

 

第4章 飢餓宰相と世界恐慌

1920年に公表されたナチ党の「二十五ヵ条」綱領では、「民族自決権」に基づき、「すべてのドイツ人の大ドイツ国への統合」が要求された。「二十五ヵ条」要綱では反資本主義、反エリート主義、社会福祉の拡充などさまざまな主張が挙げられたが、注目すべきは反ユダヤ主義とメディアや扇動への執着だ。

第一次世界大戦後、旧ロシア帝国から多くのユダヤ人難民が流入し、戦争と革命で深刻になっていた反ユダヤ主義がさらに激化する。ナチ党は宗教や居住の実態に関わらず、ユダヤ人は外国人関係法規を適用されるべきとした。また、新聞はドイツ語で書かれたドイツ人によるもののみの発行を認め、非ドイツ人が影響をもったり、「公共の福祉」に反するものは認めなかった。

権威主義国家を打倒し、宗教色がなく民主的なヴァイマル共和国はドイツのプロテスタントに嫌われた。また、ヴァイマル憲法を起草した中心人物がユダヤ人であったことからも反ユダヤ主義は高まる。階級や宗教が合致する政党がなかった中産階級プロテスタントはナチ党を支持するようになっていく。

1920年代末期、英米の作った経済・金融システムの中でドイツは不利な立場だった。また、賠償金の支払いもドイツに大きな負担となり、債務負担により諸外国に依存する事態となった。ナチ党は自給自足の経済を作り上げることでそこから脱却しようとした。

ナチ党でヒトラーの右腕とされたシュトラッサ―は、党の支持者以外からも人望を集めていた。彼は11月革命を反乱とみなし、反資本主義を掲げた。また、第一次世界大戦で失った領土に対し、ドイツ国民は怒りと国境警備上の脅威を感じていた。

第一次世界大戦後に多くドイツに流入した難民や、ほかの列強の影響を強く受けるドイツの政党を、ナチ党はドイツの弱さとし、自給自足の経済をつくるために難民、ユダヤ人、共産党員を排除し、より強固にドイツ国民が総力戦に臨める状態を目指した。

しかし、ナチ党は世界革命からの影響も受けていた。ヒトラートルコ共和国アタテュルク大統領を崇敬し、オスマン帝国が締結したセーヴル条約の破棄、アルメニア人虐殺を称賛した。ロシア人からもたらされた『シオン賢者の議定書』によってドイツ人は反ユダヤ主義に感化された。ナチ党はイタリアのムッソリーニとそのファシスト体制には強い影響を受け、彼らに倣った制服や敬称、敬礼を行い、ファシスト党とつながりをもった。ファシズムは敗戦と共産主義の高まりを経験した国に起きる。ドイツの国家社会主義は他国の影響によるものだったのだ。

ブリューニングはドイツの経済危機は賠償金支払いが原因と考え、アメリカに仲裁を頼んだが実現せず、経済危機により政治状況も緊迫した。そんな中、フランスは軍縮と賠償金の支払いを期待してドイツへの大型融資決定を発表する。しかしブリューニングはヴェルサイユ条約に違反するオーストリアとの関税同盟を結ぶ発表をし、フランスの融資を回避する。さらに彼はドイツ経済は賠償によるドイツの窮状を声明やイギリスとの会談によって訴えた。ドイツ国内の共産党やナチ党を政権から遠ざけるために米英は動き、すべての賠償金と戦債の支払いを猶予する「フーヴァー・モラトリアム」を発表した。ブリューニングは賠償金支払いを終わらせたが、これは世界的な大金融危機の引き金ともなった。1931年には経済危機から世界恐慌に陥り、ドイツは前代未聞の失業者を抱え、栄養不足による病気も広まった。

ベルリンでゲッベルズはナチ党の宣伝活動を行っていた。ヴァイマル共和制では、すべての政党が準軍事組織を持っていた。ナチ党は突撃隊(SAまたは褐色シャツ隊)と呼ばれる組織をもっていた。内戦に近い状態の中、突撃隊は暴力沙汰を起こし、共産主義者からの正当防衛だとメディアを使って訴えた。1931年から32年にかけて内戦状態が悪化し、共和制は揺らいでいた。

 

5章 国家非常事態と陰謀

シュライヒャーは、右派に国会議席過半数をとらせるのはドイツ国家人民党は無理でもナチ党ならできるかもしれないと考えた。一方、首相ブリューニングは徹底した保守派だったが、政治に関しては社会民主党が頼りになると考えていた。世界恐慌対処のためにブリューニングが出した大統領緊急令はナチ党を危険視する社会民主党によって支えられていた。しかし、その姿勢は社会民主党の支持者、シュライヒャーやヒンデンブルクをそれぞれ幻滅させた。

シュライヒャーはナチ党の支持基盤は脆弱で共産主義になびきかねないと誤解し、またナチ党の危険性を理解していなかった。ブリューニング首相は大企業など左派との協力関係を嫌う支持基盤や、シュライヒャー、ヒンデンブルクからの信頼を失っていた。大統領ヒンデンブルクは自分の名声を守るため大統領緊急令を使わず右派が自分に協力した政治運営を望んだ。ヒンデンブルクシュライヒャーはより右寄りの内閣再編を要請し、ブリューニングは実行した。しかし、ナチ党、ドイツ国家人民党も野党のままで、2人のブリューニングに対する苛立ちは募る一方だった。

鉄兜団と国家人民党からデュスターベルク、共産党からテールマン、右派退役軍人団体の支持と中道派・中道左派の後ろ盾を得たヒンデンブルク、そしてナチ党を代表してドイツ国民になったばかりのヒトラーが出馬し、大統領選が行われた。選挙には消極的だったヒンデンブルクが決選投票で53%の票を獲得し再選を果たした。

1931年の春、ブリューニングらの主張により、ベルリンの治安悪化の原因である突撃隊禁止令が出された。突撃隊を利用したいと思っていたシュライヒャーは突撃隊だけでなく国旗団も非難されるべきと主張、さらに突撃隊禁止令の撤回、ブリューニングらの失脚、プロセイン州の現政権の終焉を目指してナチ党と接触した。ヒンデンブルク内閣総辞職を求め、ブリューニングはそれに応じた。

貴族の次男、パーペンは陸軍の軍人としてアメリカで諜報活動を行っていたが、当局に活動が発覚し、帰国する際に多くの機密事項をイギリス情報機関に奪われてしまう。帰国後は帝国陸軍オスマン帝国駐留ドイツ軍で汚名を返上し、その後中央党から政治の世界に入る。人当たりがよいが頭が切れるとはいいがたい彼が、ブリューニングに代わってヒンデンブルクから首相に任命された。パーペン政権は前内閣よりはるかに右寄りで上流階級の閣僚が多く、「男爵内閣」とあだなされる。シュライヒャーとナチ党の取引に基づき突撃隊禁止令は撤回され、政治的暴力を扱う「特別法廷」が創設された。議会の多数派から支持を受けていたブリューニングと違い、シュライヒャーとパーペンの内閣は議会政治を完全に終わらせるために大統領緊急令を使った。プロイセン州政府に陰謀と反逆の冤罪を着せ、大統領緊急令でパーペンがプロイセン州の元首となった。

 7月31日、ナチ党は選挙で圧倒的勝利を収めた。支持層はプロテスタントの農村部。投票日の夜から突撃隊員による政敵らへの殺人や放火などの暴力が続いた。パーペンの緊急命令による特別法廷でナチ党5名の死刑判決が出ると、ナチ党の幹部はパーペン政権を激しく非難した。一連の出来事を見たドイツ国民やメディアだけでなく、政権や陸軍もナチ党の危険性に気づきはじめ、鎮圧する計画を立て始める。ナチ党は大統領緊急令とプロイセン州のクーデターを口実にヒンデンブルクの罷免提起の準備をしていた。シュライヒャーら政権側は政権の存続のため、ナチ党は権力の座につくため再び会談を行い、ヒトラーを首相にする合意をするが、ヒンデンブルクは「ボヘミア上等兵」を自分の首相にするのを嫌がり、会談は決裂する。

8月30日、パーペンらは非常事態の宣言と、議会の解散と選挙の延期を計画していた。しかし、9月12日、国会が再開されたとき、共産党が出した不信任案によってパーペン政権は退陣させられる。続く選挙でナチ党は第一党を獲得するも得票率は37%から33%にまで低下し、共産党を抑えナチ党を引き入れたいシュライヒャーは焦る。ヒンデンブルクはナチ党と共産党が手を組んで蜂起し、内戦が生じる可能性を避けるため、ナチ党を分裂させて多数派をまとめるのというシュライヒャーを首相にした。

 

6章 ボヘミア上等兵と貴族騎手

1932年12月、シュライヒャーは首相に就任する。彼はナチ党シュトラッサー一派含む、本来敵対する勢力を結びつける政治連合を組み、公共事業とインフラ整備に公的資金を投入し雇用を生み出す「横断戦線」という構想を軸としていた。

シュトラッサーはナチ党幹部ではあったが、ヒトラーの極端な方針やナチ党の暴力性を拒むようになった。そこでシュライヒャーはシュトラッサーを自分の内閣に引き込もうとする。しかし、ヒトラーの方針に反する彼はナチ党内で孤立し、党幹部を辞任する。

パーペンは首相を降ろされたあと、シュライヒャーを倒すためにヒトラーと交渉を続けていた。シュライヒャーはシュトラッサーが党内でまだ力をもち、自分を支持してくれると誤解したまま話し合いを続けていた。ヒンデンブルクシュライヒャーの農村部政策に不満をもつ貴族たちが自分の印象を悪くするのを気にしていた。

1月15日のリッペ州選挙にナチ党は全力を注ぎ、43%の得票率で勝利したことから、シュライヒャーがシュトラッサーを内閣に入れる望みは絶たれた。パーペンはヒトラーを首相に推薦するが、ヒンデンブルクヒトラー首相指名を固く拒む。シュライヒャーは緊急事態を宣言する大統領緊急令を出して国会を休会したが、暫定政権としての存続を選ばず、ヒンデンブルクも選挙の延期は認めなかった。国内の対立は増し、左派は緊急事態の違法性を訴え始めた。1月31日からの国会開会が決まると、ヒンデンブルクシュライヒャー内閣の辞職を受け入れ、ヒトラーを首相にし、国会は選挙を行うために今一度解散させる決意をした。議会が安定政権を成立させられなかったため、最も力のある政党の党首を首相に選んだのだとされるが、ヘルマン・ミュラー政権は安定し、ブリューニング政権は信任を得ていた。1932年から33年の政治危機と議会の膠着状態、そして解決策としてのヒトラー首相就任は、一連の保守派政治家たち(フーゲンベルク、ブリューニング、シュライヒャー、パーペン、ヒンデンブルク)が左派を排除し自分たちに都合のよい条件で権力を維持するために作り出された。1月30日、ヒトラー内閣が成立する。内閣成立当初は、閣僚内のナチ党員は3人のみで、残りは副首相パーペンをはじめ、従来の上流層の右派だった。ほとんどのドイツ人は内閣の保守派政治家やヒンデンブルクの権威、陸軍がヒトラーを正道から外れないようにすると信じていた。

第7章 強制同質化と授権法

ヒトラープロイセン州の内相にナチ党ゲーリングを任命し、彼はプロイセン州の警察を管轄するようになった。2月初めから左派の政治家や知識人、報道機関などナチ党に敵対する人々を標的として法令と警察の措置が導入された。政治集会の中止、結社の禁止、報道機関の閉鎖など幅広い権限を警察に与える法令にヒンデンブルクは署名した。2月27日国会議事堂が炎上すると、ヒトラー政府は共産主義者によるテロだと主張し、「議事堂炎上令」とも呼ばれる大統領令を発令する。これによって言論・集会・結社の自由、新書・電信・電話の秘密、住居不可侵、人身の自由が一気に剥奪された。さらに中央政府が州政府に介入する権限も認められた。国会議事堂炎上は、現場で逮捕されたオランダ人熟練煉瓦職人が単独で放ったと強硬に主張したが、彼が単独で放つのはほぼ不可能で、あまりにもナチ党に有利に働いたので、今もナチ党が放火したのではないかという議論がなされている。

商業広告を手本にしたナチ党のプロパガンダにより、合理的な啓蒙思想的な基準は軽視され、事実上の革命が起きたも同然だった。19世紀末のヨーロッパでの、普通選挙が行われるようになったこと、ユダヤ人に対する憎悪や偏見が中世以来再び現れ非合理性が社会で容認されるようになったことという2つの重要な出来事はこれと関係する。ナチスは人種主義という非合理性を魅力的に見せ、資本主義でリベラルな欧米諸国を合理性と結びつけて拒否した。ナチ党の支持者たちはナチズムが非合理であっても気にしなかった。ナチ党は報道に強く圧力をかけ言論を統制し、司法を見下してヒトラーの意向に反する裁判官は解雇されることもあり、「総統」という新しい法的概念が作られた。

最後の選挙と公言する1933年33月5日の国会総選挙が行われた。暴力的な選挙運動が行われ、ナチ党は43%の票を獲得した。宗教儀礼や軍事パレードで「民族的団結」を実演する「ポツダムの日」から2日後、突撃隊と親衛隊が配置されたなかで国会が開かれた。ナチ党の成功と威嚇を前に、社会民主党以外のすべての党がヒトラーの授権法に賛成票を投じた。ヒトラーは大統領に依存しない立法権を手に入れ、「強制的同質化」が行われた。「信用のおけないものと非アーリア人」は公職から追放され、政党は禁止されたり解散したりし、強制収容所が設置された。

 

第8章 「あの男を追いさねばならない」

副首相パーペンは高く評価されなかったが、彼の「副首相官房」は、パーペンの副官で非公式政治諜報部のチルシュキー、急進的なナショナリストであったユング、青年弁護士のケッテラー、パーペンの報道担当秘書で元情報将校のボーゼを中心に、パーペンの知らぬまま反ナチ運動のよりどころとして利用された。彼らは広い人脈を駆使して、ナチ党の被害者を支援したり、「強制的同質化」の進行に抵抗したりした。1933年の夏にはナチス体制そのものを弱体化させ、政権交代させるための抵抗運動を始める。

1934年のはじめ、彼らはヒンデンブルクの大統領権限によって戒厳令を出し、保守派有力者による暫定政府を設け、ヒトラー政権を弱らせてから新憲法起草の国会を開く計画を立てていた。当時はヒトラー政権の政策に対する不満が出ていた上に、突撃隊も政権に主流派に不満をもち、陸軍も突撃隊の統率についてヒトラーに圧力をかけていた。さらに、ヒンデンブルクの身体が弱り始め、保守派は彼の死を利用して君主制を復活させたがっていた。そこで、副首相官房のメンバーはパーペンに体制批判の演説をさせ、それを広め、体制批判を高めてヒンデンブルク戒厳令を出させることにした。植民地市場に頼らずヨーロッパ共通の経済圏を作る必要性を述べ、ドイツにおけるファシスト体制を批判し、ドイツ人は文化や知性に関して他国を受け入れる必要性を訴える演説原稿をユングが執筆した。6月17日、パーペンはマールブルク大学の大講堂で約600人の聴衆に向けて演説を行った。演説は成功し、多くの共感者を得たものの、印刷所の演説原稿の複写はナチ党に押収され、パーペンはヒンデンブルクを訪問する前にヒトラーに丸め込まれた。実際のところ、ヒンデンブルクは大衆の支持を得た右派統一政府樹立を目標としていたため、パーペンの演説よりヒトラーの発禁措置に同意し、陸軍も突撃隊に対処するつもりはなかった。ユングは演説原稿を書いた証拠を押さえられ、逮捕される。

6月30日に起きた「長いナイフの夜」では、保守派や軍から警戒されていた突撃隊、袂を分かったシュトラッサーと彼を引き入れようとしたシュライヒャーが標的となった。パーペンの部下たちは逮捕もしくは殺害された。パーペン自身はヒトラーに取り入り生かされてはいたが副首相時代は終わった。突撃隊は本当に嫌われていたので、「長いナイフの夜」を経て政権の国内人気はかなり回復し、ヒンデンブルク、陸軍は満足し、保守派の抵抗運動は打ち砕かれた。

8月2日、陸軍元帥で大統領のヒンデンブルクは腎不全で死去した。ヒトラーは大統領府そのものを廃止し、「総統及びドイツ国首相」という称号を獲得し、軍人、官吏は全員ヒトラー個人に忠誠を誓うよう義務付けた。ヒトラーの独裁体制は完成し、政敵となるだけの基盤をもつ組織はなく、同質化した。1934年8月には大帝国を築くための戦争の準備が整った。しかし、ユングらの抵抗運動に触発されて同じような集団のなかで抵抗運動が始まるようになった。

ヒトラーとナチ党が権力を握った仕組みは単純ではない。第一次世界大戦の敗戦による心の傷によって、8月の団結と11月の「背後からのひと突き」という2つの伝説が信じられた。ドイツ再生後は、大企業、軍、農家は世界のなかのドイツの地位に不満をもち、民主主義を築いてきたドイツ社会民主党に権力を持たせなかった。ヴァイマル共和国では、ドイツ国民はあらゆる領域で激しく分断され、人数において優勢なプロテスタントの間で反ユダヤ主義が高まり、民主主義への不満が募る。ヴァイマル共和国に反対する集団は、自己の利益のために敵との妥協をいやがりヒトラーとナチ党を利用するしかなくなったために追いやられていった。ヒンデンブルクは自分のイメージを守りつつ右派政府を樹立するために、かつて「ボヘミア上等兵」と拒絶したヒトラーに取り込まれた。つまり、強引な作り話と非合理に陥りがちな文化の中で、大きな抗議運動とエリートの私欲が衝突した結果、ヴァイマル共和国の民主主義は終焉した。ヒトラーが台頭する未来を予知できたものはほとんどおらず、その無知は私たちと無縁ではない。しかし、私たちには彼らの前例があるという有利な点がある。