アウシュヴィッツ潜入記;収容者番号4859(読書感想文)

 「アウシュビッツナチスドイツによるユダヤ人虐殺の場所である。」

 私たちの世代であれば、誰もが知っているであろう。時には映画や書籍でいかに残虐な施設であったかも描かれる。だが、同時代の人々は信じがたかったのだろうか。だからこんな人道に反した行為が続いたのだろうか。

 作者、ウィトルド・ピレツキは熱心な愛国者ポーランド人。反ドイツ地下抵抗組織、ポーランド秘密軍の創設に加わった。そして、1940年、自らアウシュヴィッツに潜入するため、ワルシャワで一斉取り締まりにわざと捕まる。

 ここで描かれるアウシュヴィッツ収容所の様子は、一言では言い表せないほどの惨状だ。内情がわからなかったからとはいえ、ここに自ら望んで潜入することができる人間がどれほどいるだろうか。

 アウシュヴィッツに収容されたのは、ユダヤ人だけではない。

「ここに連れてこられたのは通りの一斉検挙で拘束された人々であり、ドイツ人からみても、第三帝国に対するどんな罪にも問えない人々なのだ」

「この地では、命を落とすのに『政治犯』である必要はない」

「われわれは『ツーガング』と呼ばれるポーランド人の無法者として扱われていることを知った。平和に暮らすドイツ人住民を襲い、ここで相応の罰をうけることになったというのだ」

 

 ピレツキといっしょに収容されたポーランド人たちは、一斉検挙で拘束された無実の人々である。彼らが、収容所の中では過酷な労働を強制され、理不尽極まりない理由で殺されていく。

 アウシュヴィッツでは、収容者によって5種類の色の三角形を身に付けていた。政治犯は赤、刑事犯は緑、第三帝国のために働くことを拒否した者は黒、エホバの証人の信者は紫、同性愛者はピンク。政治犯扱いされたポーランド人以外にも、宗教の違いや性的指向の違いによって収容された人々。彼らも、同様に過酷な環境下で殺されていく。

 生活のすべてが見張られ、暴力を受け続ける。少しでも行動が遅いと棒で殴られる。不衛生とみなされても、殴られるかより過酷な労働を強いられる。粗末な食事も十分ではなく、水分が原因の病気も蔓延する。シラミに体を食われることもあれば、チフスが蔓延して収容所内で死人が大勢でることもある。

 収容所内では、収容者の中から監督者が選ばれる。生活の責任を負うブロック班長、労働の責任を負う囚人班長、監督役でもっとも権威のあう収容者長。SSが住むのは鉄条網の外だ。監督者はあの手この手で暴力をふるい、収容者を虐待する。

 過酷な労働や粗末な食事、不衛生な環境だけが収容者の体力を奪ったのではない。寒い中、薄着で何時間も立たされたり、裸足で激しい運動をさせられたり、理不尽な暴行を受ける。脱走者が出た場合は、脱走者が殺されるのみならず、他の収容者も懲罰の整列をさせられ、その結果命を落とす者も多く出た。時期によっては連帯責任として1人脱走するごとに10人殺された。懲罰としての拷問も多く、暴力は横行し、餓死や窒息死させるなど、銃殺されることが「人道的」と言われるほどだった。

 ピレシキはこの環境下で、アウシュヴィッツの現状を自分の目で確かめ、収容所内に組織を作った。発覚すればまず間違いなく、発覚しなくても労働、虐待、疲労、病気などさまざまな要因で殺される状況下で、仲間を作り、組織を広げ続けるのがどれだけ困難なことか。ピレシキは組織の拡大と工作を続け、ストーブ工や木工職人などさまざまな職人としてふるまうことで生き延び、最後には収容所を脱出し、報告書を提出している。

 アウシュヴィッツ収容所の残酷さをピレシキはあえて淡々と語る。ポーランド人として誇り高い彼は最後まで希望を失わず、任務を遂行した。そのおかげで、私は今、人間が人間に対してどれほど酷いことができるかを知ることができる。ピレシキは上記のような、同胞が受けた残虐行為のほかに、ソヴィエト捕虜やユダヤ人が受けた行為についても記している。暴力や労働だけでなく、人体実験や殺戮についても。

 だからこそ、この環境下を生き抜き、情報を伝えたピレツキの優秀さが際立つ。そして、彼がそうまでして現状を伝えたのに、「外の世界」がどれほど冷淡だったかも。

 アウシュヴィッツでの出来事は醜悪である。残酷で、人として許されない行為である。それがわかっていたからこそ、当時のナチスは収容所は収容所を実際よりかなりよいように見せていたし、戦争末期には殺戮の証拠を隠滅した。そして、残酷だからこそ、「外の世界」の人々も、本当にそんなことが起きていたと信じたくはなかったのだろう。アウシュヴィッツの惨状を報告しても、鉄条網の中でピレツキが組織を拡大させ、いつでも制圧できることを報告しても、軍上層部は武装蜂起を認めない。見切りをつけ、脱走したあと、ピレツキはこう述べている。

 私はときどき、大きな屋敷をさまよいながら、いきなり子供たちしかいない部屋の扉を開けたような感覚に襲われた。「……ああ、子供たちが遊んでいる……」というような感慨を覚えたのだ。

 そう、われわれにとって重要なものと、人々が騒いだり楽しんだり、心配したりしながら重要だと思うものとのあいだには、あまりにも大きな隔たりがあった。

  過酷だった収容所を生き延びたピレツキは「外の世界」に失望したのではないだろうか。その後、祖国がソ連の影響下に入ったことで反ソ地下抵抗運動に参加したピレシキは、「ソ連式の訓練をうけたポーランド人の仕打ちに比べれば、アウシュヴィッツは子供の遊びだった」とまで本人のいう仕打ちを受け、同国人に処刑された。アウシュヴィッツに自ら志願して潜入し、現状を伝え、戦後76年経った日本にすらこれまで伝わっていなかった事実を教えてくれたピレツキは、最初から最後まで祖国ポーランドのために戦った誇り高いポーランド人は、これまで知られることもなかったのだ。

 命をかけてピレツキは現状を伝えた。それに「外の世界」は答えられなかった。収容所の残虐さに呆然とする一方で、「外の世界」の無関心さや身勝手さに怒りを覚える。

 「アウシュビッツナチスドイツによるユダヤ人虐殺の場所である。」

  それだけではないのだ。ユダヤ人以外にも過酷な運命に翻弄された人々がいた。何かを変えることができた人はいたはずだった。アウシュヴィッツに入ることも出ることも自分で決めたポーランド人が教えてくれた。

 終始徹底して感情を極力排除し、冷静な記述を心掛けたピレツキだが、最後の1ページは強い感情をこめている。せめて私にできることは自分も「脳なしの輩ども」の一員だとして、命について考えることだ。アウシュヴィッツでの出来事は、すべて人が人に対して行った行為だ。状況が違えば彼らもそんなことはしなかったしできなかったはずなのだ。つまり、状況が違えば、私たちもそんなことをできたかもしれないし、したかもしれないのだ。そうならないための方策を考えなくてはいけないと思う。

 

ヴィトルト・ピレツキ著,杉浦秀樹訳,『アウシュヴィッツ潜入記;収容者番号4859』,みすず書房,2020

『ユダヤ人を命がけで救った人びと』(読書感想文)

 私はナチスについて、ホロコーストについて何も知らない。そう思い知らされる一冊だった。

 私がこの本を読むきっかけとなったのは、東京2020オリンピックだ。我が妹が敬愛してやまない小林賢太郎氏がオリンピック開会式の演出から突如”解任”された。「人を傷つけない笑い」を目指している人だと常日頃から聞いていた。そんな人が、他にも何十年も前の過去を理由に”辞任”させられた人はいるなかで1人だけ、直前も直前に”解任”。原因となったコントもホロコーストを容認するものではなかったというのに。

 小林氏はなぜ解任されたのか。ホロコーストとはいったい何なのか。

 ナチスによる独裁政権、自分なら絶対にいやだ。ユダヤ人大量虐殺、自分のことじゃなくても最悪だ。私が知っているのはここまでだ。ナチスホロコーストは、その内容を詳しく語られる前に”悪”と断定され、議論の余地がないように感じる。わかる、悪いのはわかるが、そこで思考停止してもいいのか?学校の教科書や、子ども向けの図鑑や、『アンネの日記』に書かれた以上のことをきちんと知りたい。そう思って、ナチスについて、ホロコーストについて本を読み始めた。

 『ユダヤ人を命がけで救った人びと ーホロコーストの恐怖に負けなかった勇気』という題名の通り、この本ではナチスのみならず、当時ヨーロッパで多くの非ユダヤ人がユダヤ人を迫害する中、命がけでユダヤ人を救った人びとが描かれている。アメリカで編集され、その後日本語訳された本なので、フランス、オランダ、ポーランド、イタリア、デンマークとさまざまな国からアメリカに移住してきた「正義の異邦人」の話が収録されている。

 ここで描かれる「正義の異邦人」は口をそろえて言う。「そうしないではいられなかった」「人として当たり前のことをしたまで」と。そうしてそんなに強いのか。確かに、苦しんでいる人がいたら助けたいと思うのは自然なことだし、人として当たり前のことかもしれない。でも、当時ユダヤ人を救うことは、今、日本で、私が捨てられた子猫にえさをやるのとは違う。生きている人間を隠れて養うことはどれだけ難しいのだろう。もし見つかれば自分捕まるのに。家族が酷い目に遭わされるかもしれない。自分も大切な人も、殺されるかもしれないのに。

 ドイツの支配の度合いや歴史文化などから、個人のみならず地域ごとにユダヤ人に対する思いも違いが大きかったようだ。日本は物理的に外国と隔てられ、日本語を話す日本人ばかりだからか、ユダヤ人に対して特別嫌悪感をもつ人は少ないように思う。「大量虐殺されたかわいそうな民族」ぐらいに考えている人が多いのではないだろうか。少なくとも、私はなぜユダヤ人が差別されるのか大学生のときに調べるまでわからなかったし、今でも感覚としてつかめているとは言い難い。正直、宗教や人種の違いで殺そうとする意味がわからない。無知ゆえだろう。

 ただ、そういう地域ばかりではない。ポーランドでは、一部が直接ドイツに併合され、中心部一帯はドイツ人の完全な管理と統治下に置かれた。スラブ人種ゆえに低級であるとナチスに見なされたポーランドでは、国民はナチスに対して団結して抵抗し、ドイツ人への侮蔑や密輸など、ドイツ人に知られたら殺されるような行動は密告されなかった。一方、ユダヤ人をかくまう行為はポーランド人の間でも好ましくない、容認されないと考えられたという。そのため、ポーランド人がユダヤ人をかくまうのは孤独な闘いでもあったと書かれている。

 デンマーク政府は、デンマークは中立国であり、デンマーク国内のユダヤ人はデンマーク人であり、区別は許さないと主張し続けたそうだ。だからデンマークユダヤ人を助けても同じデンマーク人から迫害されることはなかったと。ブルガリアでも、ブルガリアで生まれたユダヤ人はブルガリア人とし、ブルガリア政府は国民の保護を主張したそうだ。

 フランスのル・シャンボン村では、村ぐるみでユダヤ人をかくまったという。ル・シャボン村一帯にユダヤ人が隠れ住むのを助けたトロメク夫妻の話も収録されている。

 最初は、最初のユダヤ人をうちに迎え入れたときは、人が訪ねてきたからドアを開け、家に入れた。それだけのことだった。それがどういう結果をもたらすかなど考えもしなかった。人が思うほどたいへんなことではなかったのだ。

 上は、先述のトロメク夫人の言葉だ。「たいへんなことではなかった」はずがない。確かに、ユダヤ人をかくまわなくても、食料はずっと不足していただろうし、空襲の危険もあったはずだ。でも、何度も逮捕されながら見ず知らずの他人にまで優しくするのは誰にでもできることではない、と思う。きっかけは人が訪ねてきたからドアを開け、家に入れた。それだけかもしれない。しかし、ドイツにも親戚がいた夫妻は、そのとき、既にユダヤ人をかくまうのはどういうことなのか、少なくとも知識の上では知っていたと思うのだ。それでも彼らはドアを開けた。ユダヤ人を助けた。それだけでなく、トロメク牧師は協会の役員会にはかり、村の協力も得ている。村人は協力して多くのユダヤ人を救った。それはなんと得難いことなのだろう。

 恥ずかしながら、ヨーロッパ史がさっぱりわかっていないので、この本を読むまでイタリアやフランスまでもが、第二次世界大戦中、こんなにもドイツの強い影響を受けていたとは知らなかった。最終的に勝った連合国側はもっと余裕があったのかと誤解していた。ユダヤ人がドイツ国外に逃げたという話もあるのだから、他の国ではユダヤ人を助けたところがあったのだろう、ぐらいにぼんやりと考えていた。今考えればなんという甘さ。確かにスイスやスウェーデンに逃れた人もいる。それを手助けした人もいる。フランスのル・シャンボン村では村ぐるみでユダヤ人を助けた。それでも、どれもそれは簡単なことではなかったのだ。

 同時に、神経質ともいえるぐらい、ヨーロッパ諸国がナチスを憎む理由がほんの少しだけわかるような気がする。ある国の、ある人物が、権力をもったがゆえに凶行に及んだ、だけではないのだ。喜んでやったわけではない、それでもナチスユダヤ人を引き渡した人、引き渡しに協力せざるを得なかった国は多かった。連合国側はアウシュビッツに積極的に関わろうとしなかった。加害者に加担してしまった。その罪悪感があるゆえにナチスが憎いのではないか。一口にヨーロッパといっても、ユダヤ人への差別が強い地域とそうでない地域がある。キリスト教の中でもカトリックプロテスタント、いろいろあって考えも違うし、ユダヤ教の受け止めも違うだろう。でも、ユダヤ人を皆殺しにしたいと強く願う人なんて少なかったんじゃないだろうか。誰だって自分の手を汚したくはない。でも、自分自身の命や尊厳、大切な人、大切な国民の生命、財産、国として最低限の領土、主権。みんないろいろ大切なものがあるから、ユダヤ人を犠牲にしてしまった。そんな気持ちが少しでもあったら、ナチスは憎いだろう。加害となった人、地域も、被害となった人、地域も、ホロコーストには触れられたくないもので、ましてやどのような立場であれ、軽々しくコントにされたくはないのだろう。

 副題は「ホロコーストの恐怖に負けなかった勇気」とある。第三章では、思いやる勇気についての意見が扱われている。ホロコーストが行われる中、民衆は恐怖のただなかにあったはずだ。だから、間接的に加害者になった人や傍観者になった人が多かったのだ。そのなかでユダヤ人を救う勇気には敬服するしかない。

 しかし、優しさや勇気だけで人が救えるのだろうか。その優しさや勇気が迫害の対象となるときに。宗教心とも少し違うと思う。昔少数派だったという理由だけでもない。プロテスタントカルヴァン派で昔迫害されたから、という理由で勇気がもてるならカルヴァン派はみんなユダヤ人を助けていたはずだ。ジェンダーも多少は影響するのかもしれない。女性が主要な役割を果たしたと言われれば確かにそうかもと思うが、他の地域だって女性はたくさんいるのだ。それに、我が子を第一に考える母だっている。そのときユダヤ人を救うのはリスクが大きかったはずだ。

 「正義の異邦人」たちは口をそろえて言う。「人として当然のことをした」と。でも、非常時にどれだけの人が他人のことまで考えられるだろうか。私ならば、ユダヤ人の境遇に心を痛めるだろう。でも、具体的な行動をできるかと聞かれれば、できると断言は、とうていできない。私には「人として当然のこと」はできないかもしれない。

 今、私はこの本を読み終えて、多くのことを知った。ホロコーストは広い範囲で行われ、ヨーロッパの多くの国が巻き込まれていたこと。自分の身の危険を顧みず彼らを助けた人がいたこと。かくまう、逃亡を手助けする、食料を届ける、保護する、見て見ぬふりをする、自国民であると主張する、何も知らなくても「村の子だよ」と保障する、いろいろな手段で助けたこと。たくさんのユダヤ人が殺された中で、助けられ、生き延びたユダヤ人もいたということ。そしてきっと、この本に描かれてはいないけれど、誰かを助けた、名も知らぬ人がいるだろうということ。

 同時に、考えなければならないことがたくさんあることもわかった。なぜ、ドイツは、ヨーロッパは、世界はヒトラーナチスの台頭を許したのか。なぜ、ユダヤ人が迫害の対象となったのか。なぜ、人が人を殺すということがまかり通っていたのか。なぜ、連合国側すら、強制収容所ユダヤ人を救うことができなかったのか。なぜ、困っている人を助けるという、「人として当然のこと」が個人レベルですら許されず、自分や大切な人の身も危うくする行為だったのか。

 訳者あとがきに編者キャロル・リトナーの言葉が引用されている。

 今の時代にホロコーストを教えるのは、学生たちに、「ホロコーストは”たまたま起きた”のではなく、誰かがこうしようと”決めた”結果である」ことに気づいてほしいからだ。

 自分の行動がどんな結果をもたらすかに思いを馳せ、行動とともにその結果にも責任があることを、学生たちには学んでほしい。

 今、終戦から76年が経つ。当時のことを覚えている人はもう高齢化し、亡くなった方も多い。日本でも戦争体験を話せる人、当事者意識をもっている人はすごく少なくなった。それはヨーロッパも同じだろう。戦後の混乱もおさまり、今こそ冷静に第二次世界大戦のときのことを少しだけ客観的に見られるときではないだろうか。海を隔て、遠く離れた日本だからこそ、考えことができるのではないだろうか。

 ホロコーストは災害でも疫病でもない。人が人を殺そうとした結果なのだ。絶対的な悪だ。だからこそ、ちゃんと考えなくてはならないと思う。「人として当然のこと」ができる世の中であるためにはどうしたらいいのか。自分の行動に責任をもつことは当然のこと。私はこれまで無知だった。今でも無知だ。だから学び、知り、考えていかなければならない。

 

参考文献

キャロル・リトナー、サンドラ・マイヤーズ編,食野雅子訳,『ユダヤ人を命がけで救った人びと ーホロコーストの恐怖に負けなかった勇気』.河出書房新社.2019

ブログ開設

 

27歳。無職。

 

前職はいわゆる「ブラック」な労働環境だった。

心身が壊れ、人生いろいろ考えることがあり、2021年3月、仕事を辞めた。

 

前職の給料は決して高くはなかったが、実家暮らしだったうえ、お金を使う休みもなかったので、当面慎ましく生きていくだけの貯金はある。辞めたら、1年間は働かず、自由に、やりたいことをやろうとずっと決めていた。

 

仕事を辞めたらやりたいことはたくさんあった。

学生時代に卒論のテーマだった台湾に行き、一周する旅がしたい。

ヨーロッパにはまだ行ったことがないから、フランス、イギリスあたりでアジア人はどう見られるのか体感したい。

全国津々浦々に散ってしまった友人宅を訪ねてみたい。

東京にある博物館や美術館を巡ってみたい。

学生時代の友人と朝まで飲み明かしたい。

たくさん本を読んで、勉強をしたい。

 

初めて退職の意思を伝えたのは2020年1月のことだった。引継ぎや強い慰留もあり、退職に1年以上かかった。その間に世界情勢が変わってしまった。私が退職したときにはもう、「やりたいこと」のほとんどができなくなってしまっていた。

 

特に後悔はしていないけど、たとえ後悔してもどうにもならない。

だからせめて、読書と勉強はしようと思う。

学生時代の専攻は文化人類学。台湾の先住民について調べていた。

今はしがない無職。対象を台湾や人類学だけに絞らず、幅広く学習していきたい。

 

このブログは、ささやかながら私個人の学習の記録として活用していくつもりだ。